Btn close sp
CONCEPT
これからのかっこいいライフスタイルには「社会のための何か」が入っている。社会のために何かするってそんなに特別なことじゃない。働いてても、学生でも、主婦でも日常の中でちょっとした貢献ってできるはず。これからはそんな生き方がかっこいい。r-libではそんなライフスタイルの参考になるようなロールモデルをレポーターたちが紹介していきます。
# 042
Kazushi Hosaka
January 15, 2019

r-lib | 松林うらら × 保坂和志 「小説的思考塾」  開講記念 特別インタビュー【前編】

「小説的思考塾」第一回目のテーマは「時間・過去・記憶」

GENRESArrow文化

「小説的思考塾」 開講記念 特別インタビュー【前編】

r-libが主催するサロンで、2月23日より保坂和志さんによる「小説的思考塾」が毎月1回のペースで開催される予定です。「小説的」とありますが、芸術全般に携わる人にとって聞く価値がある内容になりそうです。第一回目は「時間・過去・記憶」がテーマです。

Reported by Urara Matsubayashi


松林: さっき仰っられた優れた歌詞って、例えばツイッターとかネットで出てるものでもあり得えますか?

保坂: あり得る。あり得るんだけど、たまに凄く面白い評判のツイッターあるでしょ?面白いなと思うけど、お笑いの人がしばらく面白かっただけみたいな感じで、いくつかバーっと読んでるとやっぱり飽きるんだよね、パターンがあって。やっぱり短いとパターンがあるんだよね。でも歌の歌詞ってメロディーと伴奏とテンポと全部ついてて、ただの言葉じゃないわけ。ツイッターってただの言葉でしょ。でも言葉って、誰が言ったかって凄い大事なんだよね。誰が言ったか、どこで言ったか。あの世界的に有名な“I HAVE A DREAM”って、キング牧師のあの言葉が耳に残るから名フレーズになるわけで、実は単純なこと言ってるんだよね。

松林: 良い歌詞は私も素晴らしいと思うけど、今のJ-POPに多い、それこそテンプレートの歌詞、薄い歌詞っていうのは……あまり好きじゃないです。





集長S: 歌手が歌ってるものは比較的言霊になりやすいけど、ツイッターとかは記号になりやすいってことですかね?同じ言葉でも言霊的なものは生まれにくいというか。

保坂: 生まれるだろうけど、パッと思い出そうとしても僕の中ではツイッターではその経験はないんだよね。ということはやっぱ大事なことだよね。

カメラマンN: ツイッターって人に見られることが強く前提となってる気がします。

誰に読まれなくてもそれが書かれただけで良い文章


保坂: 僕はよく同人誌みたいに何人かで作った本をいろんな人からもらうので、パラパラ見るんだけど、そうするとその文章がね「読まれなければ意味がない文章」なんだよね。でも、良い小説の文章っていうのは「誰に読まれなくてもそれが書かれただけで良い文章」なんだよ。良い文章っていうのは、自分は知らなかったけど、出会うっていうか、たどり着くっていうか、誰かの導きによって、誰かの文章に書いてあったから読めた。そこで初めて出会ったとしても、それまで誰が出会ってなくても、それは良い文章、良いものであるわけ。

 小説でも映画でもそうなんだけど、やっぱり消費されない芸術っていうのは、誰の目に触れてなくても良いものは良いんだよね。ひねくれた言い方をしていくと、芸術至上主義で時代錯誤的な感覚になるかもしれないんだけど、でもやっぱりそこを心の核に持ってないと消費されるっていうか、「いいね!いいね!」っていうことだけを期待する。

 だから小説を書いてる時に誰かが「面白いね!良いね!」って言ってくれるイメージがないと書けないものと、「面白いね!良いね!」って誰にも言われなくても、そんなイメージがなくても書けるものがあるわけ。映画もやっぱり最後は、監督だけの孤独の中にみんなを待たせる。それでも「いいね!」って現場では言われない。現場ではそういうのわかんないから。そういう目の前の、近場の人たちのいいねを頼りにしないで、それ無しで考えられるっていうのが芸術といわれるものの絶対必要なところだと思うんだよね。ただほとんどの小説は編集者が「面白いですね!」っていうのを頼りに書いてるのが見え見えなんだよね(笑)。





うちの奥さんは僕より読書量が多くて、英文学の学者だからヴァージニア・ウルフとかを読んでるんだけど、それでも一応僕が「この小説面白いからちょっと読んでみて」って言ったら、いつも読んでくれる。でも今日の新聞に小説の文章があって、「へぇ!今エンターテインメント小説ってこういう文章書くんだ」と思って、うちの奥さんに「これ読んでみて。エンターテインメント小説って、これ典型的だと思うんだけど、今ってこういう文章になってんだよね」って見せたら、「ふーん」て言って10行くらいで置いちゃって(笑)。相当つまんないものでも読むの早いから、与えられたものはバーって一応読むんだけど、流石に読まなかったね。

編集長S: 消費されるものを書く人って、拠り所にしてる何かが無いから言葉も拠り所が無いものになって、浮ついた表層的な使い方をしてしまうわけですよね。拠り所にする何かっていうのは、簡単に見つけられるものでもないと思うけど、多分表現者ってみんなそういう根っこにできる核が欲しいと思うんですよ。デビュー前は特に不安だと思うし、みんなに認められればそれも拠り所にできると思うんですけど、それがまだない人が、例えばくだらない世の中の情報に振り回されて、「もしかしたら間違ったやりかたしてるかも」って揺れちゃう時に、そこで信じれる「多分この感じ間違ってないはずだ」って思ってやってくためには、どうすれば良いと思いますか?

保坂: その前に書く人が、すぐ手近な人に「あ、これ面白いですね」っていうのを期待しないこと。あと、読む方も「これ面白かった!」って誰かに言えるとか言うとか関係なく読める気持ちがあるかどうか。例えば僕の本だとして、それを言える友達がいなくても、これは読んでよかった、誰にも言わなくても好きだっていう風に思えたら、その人の中にはちゃんとしたものがあるわけ。僕は大学4年生くらいにベケットの小説『モロイ』を偶然読んだ時も、田中小実昌を読んだ時も、面白さを共有できる人は何年も周りにいなかったもんね。

松林: その感じ凄いわかる。私、小説じゃなくて映画がそうでした。

編集長S: 保坂さんの周りにもいなかったんですか???

保坂: いなかった。みんな深く入り込んでいくと、それぞれ好みが違うし、もっと手前の入り口で、一緒に面白がってた映画とか小説はあるけど。でも、もうここまできたらアイツは関心示さないだろうなっていう判断もしてたし、わざわざ言う必要もなかったんだよね。働き出してから、少し話が分かりそうな人に話を振ってみてもやっぱりダメだった。田中小実昌とベケットは、芳しい反応がないまま何年も過ぎたんだけど、ある日、元編集者だった人に「小島信夫ってどういう人なんですか」って聞いたら「お前の好きな田中小実昌みたいなのの親玉だよ」って言われたの(笑)。その一言は大きかったね。その人は全くわからない人だったけど、それを言ってくれただけで大きかった。

編集長S: 書く側も読む側も誰かをあてにしないで、自分で向き合えるかって重要ですね。

松林: みんなそういうの求めてるのかな?孤独なんですかね?現代人って。

同じ孤独な人とどこかで出会う


保坂: 芸術やるってことは、基本は孤独なんだよ。簡単に同意も助けも求めちゃいけない。個人の作業だからそこは孤独なの。孤独なんだけど、孤独からの逃げ出し方っていうか、孤独の乗り越え方が、「同じ孤独な人とどこかで出会う」っていう風に信じられるかどうかなんだよね。今日明日自分の孤独が解消されるっていうのはただの寂しいだけなわけ。それは人生と関係ない。考えてることを実現していくっていうのは、本質的に孤独な作業だから、それは今日明日の作業じゃないんだよね。

 でも、いつか出会えるっていうことは、実際にやり始めるとその確信もでてくる。デビュー作の『プレーンソング』を書き出した時に、これはいつか誰かにはわかるっていう感じがあったんだよね。だからとにかくやる。それまではもっと短い100枚(文庫本で5、60ページ)くらいの小説を三つほど書いたけど、それは書き上げたら誰かに読んで欲しくてしょうがなかったんだよね。でも『プレーンソング』の時は、書く作業だけで十分何かになってる気がしたから、すぐに誰かに見せて「面白いね」とか「ここがつまんないからこうしろ」みたいなことは聞かなくても、この中でちゃんとできてる感じがしたんだよね。





松林: なるほど。今自分の表現者としての悩みが、周りが「良いね」を求めていたりすると焦っちゃう気持ちがあって。でもそうじゃないなっていうのは、今わかった気がします。ところで、自己肯定っていうのは良いんですか?

保坂: 物事には全部良い悪いがあるんだよ(笑)。その自己肯定はまずいんじゃないっていうのと、その自己肯定は良いんだよっていう。だから言葉だと同じになっちゃうんだけど、中身は違うんだよね。形が完全に小説でも、「これ小説じゃねぇよ」っていうのと「これを小説っていうんだよ!」っていうのと分かれていくわけだから。

松林: でもみんな良いか悪いかって、白か黒かみたいに決めつけたがりますよね。

保坂: 良いものは簡単に言えないよ。

言葉で言えないことっていっぱいあって、それでも何とかにじり寄ろうとするのが小説家の言葉の使い方


松林: なるほど…言葉にできない。でもそういうところを言葉にするじゃないですか、小説家って。

保坂: そこがね…言葉にしてないんだよ。ホントは。だからよくそういう質問があって、どこまで言葉にできると思いますか、言葉にできないものがあるとしたら何ですかみたいなことを聞く人がいるんだよね。それに対して、言葉にできないものなんか無い!って言い切る小説家も確かにいるんだよ。全然わかってないなぁと思うんだけどさ(笑)。

 言葉で言えないことっていっぱいあって、それでも何とかにじり寄ろうとするのが小説家の言葉の使い方なんだよね。やっぱ言葉じゃ無理かなって思うところはあるけど、その人の動作とか語り口で通じることはある。「わかった」って頷いた人が、「何がわかったの?」って問い詰められると「あぁわかってないかも…」って思いがちだけど「言葉では言えないけど、わかったかも」っていうエッセンスみたいなものが通じてることもあるわけ。だからそれがどうやって通じてるのか、何年か試してるやり方があるんだよね。

 最近の僕の小説ってちょっと変な文章でしょ?センテンスも句読点も変だし、どこで切っていいのかわからない。これちょっと「てにをは」おかしいんじゃない?とか、文が「ここで切れるんだ!」みたいな感じって、慣れてる文章だと普通に淡々といくのが、そういう変な文章に接すると「あれ?」ってことになる。聞きにくいからちょっと体を乗り出すみたいな感じにさせることで、身体の振動で伝えたいっていう気持ちがあるんだよね。

松林: なるほど、そういうことなんですね。

保坂: だから僕は言葉の意味とは違う、リズムとかテンポの歌的な部分を動員しようと思ってやってるんだよね。それはただ単に詩を詠み上げたりするのとは、違うんだけどさ。

松林: 詩を詠み上げるのって、雰囲気みたいなものが醸し出されて、感動させたいっていう意図があるんですかね?

編集長S: ちょっと脱線するかもしれないんですけど、感動っていう言葉を拾うとすると、いわゆる感動って、共通の「感動」というか、共有させる何かがあって、それって共同幻想的なものも含まれてるかもしれないなと思うんですよ。多くの人はそれこそが感動だと思ってるけど、ホントは共同幻想のもとに、より多くの人と重なってる部分の感動にアクセスしてるだけっていう気がします。ホントは違う感動の形もあるのに、みんなその共同幻想みたいな感動に左右されがちだなって。まぁこれって保坂さんの影響受けてるから思ってることかもしれないけど(笑)。

松林: 感動って話だと、想像力が欠如してるみたいによく言われますよね。

編集長S: 想像力っていうか僕はキッカケだと思ってて、多分みんなが思ってる共同幻想としての感動じゃない感動があるっていうのを知れれば、自分なりの感動って見つけられる、気付きがあると思うんだけど、今は共同幻想の感動だけが感動だって疑わない人が多い気がする。

保坂: 共同っていうよりも教室だよね(笑)。仲間内だよね。





編集長S: それこそSNSでシェアされる「感動する話」も、どういう展開で「いわゆる感動」に持っていきたいかっていうのが、水戸黄門的なものを感じる。それはそれでいいんだけど。

松林: 分かりやすさを求める。

編集長S: 映画とか小説も用意された感動ってあるし。

保坂: まずさぁ、映画観にいく時に泣きに行くでしょ?泣ける映画だって聞いて泣きにいくでしょ。それがそもそもおかしい。

編集長S: 「全米が泣いた」的な(笑)。

松林: そもそも映画って泣きにいくものじゃないですもんね。

坂: だいたい涙の意味がペラペラだし。涙ってやっぱどこかからわかんないものが溢れでるんだよ。「答えはきっと 奥のほう 心のずっと 奥のほう 涙はそこからやってくる〜」

全員: (笑)

後編はこちら




【お知らせ】
保坂和志 小説的思考塾 開催!


【日時】2月23日(土)16時〜18時(17:30より質問タイム)

【場所】 RYOZAN  PARK巣鴨(グランド東邦ビル)地下  (巣鴨駅南口から徒歩3分 )
 〒170-0002 東京都豊島区巣鴨1-9-1 

【料金】 2,500円

【主催】r-libサロン
【協賛】RYOZAN  PARK

【申し込み・問い合わせ】

FBページでの参加表明

または下記のアドレスへご連絡ください。
hosakakazushi.official@gmail.com



12
このエントリーをはてなブックマークに追加
Gplus original
Tw original
Fb original
Pocket original
保坂和志

保坂和志Kazushi Hosaka

PROFILE

-

保坂和志(ほさかかずし)
1956年 山梨県生まれ。鎌倉育ち。
早稲田大学政治経済学部卒業。

1990年『プレーンソング』でデビュー。1993年『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、1995年『この人の閾(いき)』で芥川賞、1997年『季節の記憶』で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、2013年『未明の闘争』で野間文芸賞、2018年、『ハレルヤ』所収の「こことよそ」で川端康成文学賞を受賞。その他の著作に『カンバセイション・ピース』『小説の自由』『書きあぐねている人のための小説入門』『朝露通信』『猫の散歩道』ほか。

【HP】http://www.k-hosaka.com/
【Twitter】https://twitter.com/hosakakazushio
【Instagram】https://www.instagram.com/hosakakazushi.official/
【Facebook】https://www.facebook.com/hosakakazushi.official/

by 松林うらら
取材のご依頼はこちら